これまでとこれからも

インタビュー

政治家になったきっかけは?

 母が80歳になる年にベトナムから防府に帰郷すると約束していました。そして、帰郷したら地域おこし協力隊のようなことができないか?と考えていました。それで調べてみると、行政との関係で失敗している事例を多く散見しました。もしも、行政と協力隊のなかだちができるような仕事ができるとすれば、それは政治家だと思いました。
 ちょうどその頃、号泣議員のニュースがベトナムでも聞こえてきて義憤に駆られたのも大きな要因でした。自分だったらもっとまともな政治家になれると思いました。その頃から地方議会のことを調べて勉強するようになりました。
 しかしながら、政治家になるための具体的なビジョンもアクションも全く考えていなかった時に、図らずも互いに全く関係のない3人の方からほぼ同時期に打診を受け、現職の議員さんからも「一緒に頑張りましょう!!」とのお言葉をいただき背中を押されて、政治団体を立ち上げる決断をしました。

政治家として心掛けているところ

 まずは自分の住んでいる地域をよくしなければなりません。そのためには住んでいる方々の声に耳を傾けなければなりません。今は自治会長として様々なお声を聞きますがあちら立てればこちら立たずということが頻繁にあります。本当はあちらもこちらも立てたいのです。それで、あちらもこちらも立てる=両立させるにはどうすればいいかということを常に心がけています。

政治家として遣り甲斐を感じることは?

調整し両立させて全てがまーるく納まった時に遣り甲斐を感じます。

力を入れていく政策は?

 少子化問題に力を入れていきます。若者を取り巻く労働環境の問題、賃金の問題、教育の問題、社会通念の問題、家庭の問題、など、いろんな問題が複雑に絡み合って生じています。この少子化問題の本質は若者の生活が安定していないことです。40代になって生活が安定しても、子どもを授かる時期にはもう遅いのです。そういうわけで、若者が30代前後で生活を安定させるために政治家としてやるべきことはたくさんあります。

政治家にならなかったら何になりましたか?

 私の人生の理想は社会に貢献して人生を全うすることです。20年以上前にたまたま海上保安庁さんの鞄持ちで国際会議に出席した時に自分だけで精一杯の人生ってつまらないと気づきました。それは拙著「フィリピンの紫のため息」にも書いたことで、それは今でも変わりません。それまでの自分を拭い去って青年海外協力隊に応募したのは38歳の時でした。その頃から機会があればボランティア活動に専念してきました。今は幸いにして人財育成の仕事をライフワークとしていますので、政治家になってもならなくてもそれは一生の仕事だと思っています。

有権者(特に若い方達)へのメッセージをお願いします

 ベトナムの若者と触れ合う機会が多くあって、思うのは情熱が凄いところです。でも帰国すると情熱を失った若者が多くてがっかりしています。できない理由ばかり考えていて、できる方法を考える情熱が失われています。国も人も情熱とともに隆盛し、傲慢とともに衰退していきます。傲慢の本質は軽視でこの軽視が社会に蔓延しています。これからの社会を創っていく若者達には軽視しているものに気づいて軽視することを止めて、情熱を取り戻して欲しいです。軽視して良いものはこの世に存在しません。情熱を取り戻し隆盛を取り戻して欲しいです。そのためにできることを私はやっていきます!! よろしくお願い致します!!